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Q:『命って平等なの?』

なんていつの時代でもありそうなよくある質問がありました。
これに対する私のアンサーは何故か二つあります。一つはまあ日記でも言ってたあれなんですが。もうその日記残ってませんけど。

A:『平等に不平等です』

ということ。
例えば、何でもないようなことばかりの人生で特に山もなく波もなく歳を重ねていって最後に寿命を全うした人の命と、生まれたときから奴隷階級虐げられ続け最後にそれが過ぎて殺された人の命の価値が同列に扱えるとは思えません。あまりにも極端すぎるような例のような気もしなくはないですが、つまりはそういうことです。
上の考えは、人生に価値をつければ、という考えのもと生まれる答えです。そしてもし価値をつけるとすれば、その人が送ってきた人生によって価値は変わるでしょう。
しかしまあ、価値観というものは人によって違うものです。Aの人生を幸せだと感じる人もいれば不幸だと感じる人もいるのです。
そうなると上の答えは、不平等であるのはそれに価値を見出した人の中だけ、ということになりますよね。
価値観があるからこそ不平等になる。なんとも皮肉な話です。

さて、もう一つのほうの答えですが、それは

A:『平等である』

ということ。
さっきの答えをまんまひっくり返すような回答ですが、まずは話を聞け。
人生とは生と死を必ず内包するものである。生で始まり死で終わる。そういうものだと思うんです。それは誰もが同じことだと思うんです。
誰にでも平等に生は与えられ、そして平等に死が与えられていく。『人生』を始めたものは、誰も避けることなどできない。
そんな考えだと上の答えになりますよね。
ですが平等かどうか、という質問に対してどちらかの答えが出る時点ですでに価値観というものに支配されて考えてる気がします。微妙ですね。
なんてことを考えてたら、そもそもこういうことに価値観を見出すのが、そしてこういうこと自体を考えるのが人間だけだということに気づきました。
始まりと終わりは何にでもあります。平等かどうか、価値があるかどうか。そんなことを考えること自体がナンセンスじゃないかな。そう思います。

なんか今まで書いてきたこと全てが無駄になった気がしなくもないですが、でもそんなものの価値より、明日何を食べようか考えることのほうが重要です。少なくとも私にとっては。
そんなものに囚われて他人の人生に嫉妬したり、自分の過去を嘆くよりも、今ある自分を大事にしたいです。



『結論』
平等でも不平等でも、あなたが笑える日々を過ごしなさい。それが一番大切なことだと思いますよ。





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